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 運命の赤い糸                  10 11


   1

「カズネは、おまじないって信じる?」
 そう急に聞かれて、私、楚原和音はひどく怪訝な顔を浮かべてしまった。
 放課後の教室。素早い人たちは既に部活やら自宅やらに向かってしまって、今教室に残っているのはクラスの半分くらいだろうか。
「……まあ、少しは信じるよ。ヒビキ、そんなの好きなんだ」
 私が答えると、その質問を訊いた友達、響は、更に続けた。
「そう言うわけでもないんだけど……ちょっといいおまじないを聞いたんだ。一緒に試してみない?」
「どんな?」
「えーとね、こういう風に左手の小指の第1関節に赤い糸をきっちり3周巻いて、」
 響は左手の小指を立ててみせた。そこには彼女の言ったとおり、糸が巻いてある。
「こう一息で呪文を唱えるんだって」
 息を吸い込んで、一気に言う。
『バロンバロンバロン、願いは地から空へと、空から地へと、叶えたまえ」
「いったいどこの男爵よ」
 吹き出すのをこらえながら言う。
「じゃがいもじゃないんだから」
「ぷっ」
 何故か爆笑しはじめた響。……笑い上戸だ。ゼッタイ。
「ま、それはともかく」
 うけて喜んでいいのか分からない妙な気持ちのまま、とにかく私は脱線した話を元に戻そうとする。少し待つと、響はやっと笑いを止めてこっちに向き直った。
 私は言葉を続ける。
「で、そのおまじないが何に聞くの?」
「縁結び」
 急に顔を近づけて小声で言うと、響はにやりと笑った。
「好きな人の顔を思い浮かべてこうすると、一週間以内にその2人は結ばれるんだって」
「わ、嘘くさぁ」
 即座に返す。
「ところが効くらしいんだなぁ、これが。和音もこれで藤森くんと……」
「ちょっと待ってよ!」
 大声を上げてから、ここが教室の中だと思い出して慌てて声を落とす。
「私と浩史はそんな関係じゃないって」
「嘘ばっかし」
 断定口調で言う。
「単なる幼なじみだって」
 必死で否定する。
「はいはい。……ま、そう言うことにしてあげましょ。……で、一緒にやらない?」
「だから、私にはそんな想い人なんていないって。やんないよ」
「ふーん」
 ニヤニヤ笑いながら、彼女は私の隣の席から立ち上がった。
「後悔するわよー。ああ、愛しの桜田さまc」
 うっとりとした口調で呟きながら去っていく。……ちなみに桜田というのは、この高校の一つ上の先輩。確かに格好いいのだが、何分にもちゃんと彼女がいるらしい。それを抜きにしても競争率は高い。私が言うのも何だけど……響じゃ、無理なんじゃないかなぁ?

    2

 高校から駅まで歩いて15分、それから電車で15分、さらに自転車で5分。
 遠いとまでは行かないが……学校から私の家までの距離は、決して近いとは言えない。
「ふぁあ、疲れたぁ。どっこいしょ」
 年頃の娘が口にするべからざる台詞を口にしながら、私はベッドに腰掛けた。
「運命の赤い糸、か……」
 何ともなしに呟いてみる。……何だか、気になってしまう。
「藤森くん……」

 私と藤森くんこと藤森浩史との関係は、保育園の時に遡る。
 いじめられていた彼を、同じひまわり組だった私がかばってあげたこと。それがまあ、私と彼の邂逅だった。正直言って頼りないんだけど、何となく守ってあげたい……そんな雰囲気を持つ男の子だった。私たちはやがて幼稚園を経て小学校に入学し、そしていったんは、何となく疎遠になっていった。
 しかし高校に入ったとき、運命の女神は再び私たちを近付けた。私の中学からは遠い長宮高校。そこに進学した数少ない生徒……その一人が私であり、また別の一人が藤森くんだった。当然、私と彼は同じ電車で通うことになり、そして駅や電車の中で自然と他愛もない話をするようになった。
 気が付かない間に、彼は背もぐんと伸びて、しっかりとした雰囲気になっていた。……でも、どこか間が抜けていて頼りないところは、あの頃から変わっていなかった。ちょっと気の弱そうな表情も、あの日のままだった。
 友達、だと思っていた。いや、今でもそのつもりだ。……でも私の心の中には、それとは別の感情が生まれていた。

 私は立ち上がると、高校の制服のスカートを脱いで、変わりに机の横の衣装箱を開いてスカートを出して……ベッドに腰掛ける。
 スカートを脇に置いて、私は……腰から下を包む小さな白い布の下に、右手を入れる。
(駄目だよ、こんなことしちゃ)
 私の理性と無関係に、本能は茂みを抜けて、その下へと手を進める。
 ちらりと部屋のドアの方を見る。鍵はかからないが、ちゃんと閉まってはいる。
 ……理性は抑えようとしている。でも本能は理性に逆らい、そして繰り返された行為によって、手先はそれ自体が最適な動きを忠実に覚えてしまっている。
 ぐちゅ、と甘美でそして醜い音。
「駄目だよ……駄目だよぉ……うぅん……」
 口に出して自分に言い聞かせる……。しかし快感がその言葉をぼやけさせる。
「んんっ……あん……」
 右手に湿り気が伝わる。
 こんな事、やめなきゃ……。
「……藤森くん……」
 思わず口走る、彼の名前。
 ……何をしゃべってるの、私!?
 自分の言葉に驚いて、はっと我に返る。慌てて右手を引き抜く。
 パンティの具合を確かめる。……ちょっと、濡れたかな……。替えようかな……。でもいいや。ちょっとだけだし、すぐに乾くから我慢しよう……。

 私はそそくさと、スカートを身につけた。
「運命の赤い糸、かぁ……」
 もう一度呟いて、ため息をつく。

 意を決して、私は台所に行った。ちょうど夕方なので、お母さんが夕食の準備をしている。この匂いだとビーフシチューだろうか。
「お母さん、赤い糸ある?」
「タンスの上の裁縫道具の中にあるけど……何に使うの?」
「へへっ」
「気味悪い子ね……」
 怪訝な表情をするお母さん。私はそのまま笑ってごまかしてその場を出ると、背伸びをしてタンスの上に手を伸ばした。

    3

 それから3日後。
「ねぇねぇ、和音」
 放課後、響が私の横に来て小声で言った。
「ちょっと話があるんだけど」
「またおまじないの話?」
 顔をしかめてみせる。
「違うの。あの、その……」
 何だか口ごもる響。そして更に声を落として、耳元に口を近付ける、
「あのさ、……私、昨日、桜田さんと……」
 そこで困ったように言葉が途切れて下を向く。そう言えば、いつもの響の「桜田サマ★」という芝居がかった口調が今日はない……。
 数秒後、思い切ったように……うんと小声で、でも私にははっきりと聞こえる声で、こう言った。
「……したの」
 そう、簡単に。文字数にしてわずか3文字。
 あまりに単純なその言葉の意味を、私はしばらく理解できなかった。
 沈黙のあと。
「え……」
 声を上げかけて、慌てて自分の口を押さえる。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 私は響の制服の袖を引っ張ると、教室を出て校舎の端へと連れていった。きょろきょろと辺りに人影がないのを確認して、小声で話す。
「それ……本当なの?」
「うん」
 小さく頷く響。
「一昨日の夕方、思い切って告白してみたんだ」
「桜田さんって、彼女いなかったっけ?」
「うん……でも、ちょうど別れた所なんだって」
「だからって……いきなり最後まで行く? そんな男、私は信頼できないなぁ」
「違うのよ」
 響はかぶりを振った。
「私の方が頼んだの。……何だか、既成事実を作っていないと、不安で……」
 ちょっと響もおかしいと思った。でも、私は何も言わなかった。
 変な気分だった。
 ……何だか、話しているのが響じゃないみたいな気分だ。
 私はどう言っていいか分からなかった。

    4

 それにしても……あのおまじない、効くってことなのかな。
 響と別れて1人で駅に向かいながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
 私と藤森くんの仲も……
「危ない!」
 耳元で叫び声がして、同時に右手がぐいっと引かれた。すぐ目の前を、自動車が警笛を鳴らしながら通り過ぎていく。目の前の信号は、右端の赤いランプが点いている。
 しかし私の思考はそのことより、背後で声を発した人物の事に注がれていた。
 聞いたことがある、いや、よく知っている声。
「藤森くん!」
 振り向いた私は声を上げた。
「まったく、危ないよ!」
 怒った口調で彼が言った。
「心臓が止まるかと思った。あー、まだドキドキしてる」
「……ごめん」
 下を向いて答えながら、私の胸は別の理由でドキドキと激しく脈打っていた。
 妙な間が、2人の間に空く。
「あ、あのさ」
 空白に焦ったように、彼は早口で言ってきた。
「そこのミセドにでも入らない?」
 言った後、あ、と狼狽した顔をしたのが、私から見ても良く分かった。
「おっけ」
 私が答えると、彼は更に慌てて、赤くなったり青くなったりした。
 ちょうど、目の前の信号が赤から青へと変わった。

 信号を渡ったところ、商店街のアーケードのいちばん北の端に、ミセドことミセスドーナツは位置している。全国的なチェーン展開を誇る、ドーナツの専門店だ。
 その店の窓際の席に座って、私はおかわり自由のコーヒーの3杯目を飲んでいた。
 何もやましいことなどお互い何もないはずなのに、妙に気まずい沈黙があたりを漂う。
「あのね、藤森くん」
「何?」
「……ううん、何もない」
 私がコーヒーを飲む。
 再び沈黙。
「あのさ、楚原さん」
「どうしたの?」
「……いや、別に」
 彼がコーヒーを飲む。
 さっきからずっとこの繰り返しだ。何度繰り返してるんだろう。

「いいよ。……何もかも、許しても」
 思い切って……私は、言った。
 浩史がぶっと少しコーヒーを吹き出す。
「な、何もかもって……」
「こういう事言う私、嫌いかな?」
 私が言うと、彼は慌てて大きく首を振った。
「いや……そんなことないよ」
 大きく息を吸い込む。
「……僕も、ずっと思ってたんだ。楚原さんと、そんな関係になれたらいいな、て」
 沈黙。
 窓の外で、自動車が警笛を鳴らす。
「……ありがと」
 取り敢えず私は、それだけを言った。

    5

 ミセドを出た私たち二人は、そのまま駅へと向かった。
 通りを歩いている間、二人の間には1メートルくらいの間隔が開いていた。何も話すことが思い付かないまま、無言で駅にたどり着き、無言で定期を通して、そして無言のまま、ちょうど一人分ぐらいの間隔を置いてロングシートに腰掛ける。
 その間には誰も座らないまま、電車は動き始めた。
 2両だけつないだ、いかにもローカル線らしい車両。一目で見渡せるその車内には、他には知り合いの姿は見当たらない。
 何か話しかけたい。でも何を話しかけていいのか分からない。
「えーと……」
 藤森くんが、何かを言いかけた。
「ん? ……何?」
 私は聞き返した。
 そして、また沈黙。
 電車が小さな無人駅に止まった。ドアが開いて、数人が降り、そしてまた数人が乗り込み、そしてドアが閉まってまた動き出す。
「あ、あのね」
 今度は私が話しかける。
「ど……どうしたの?」
 訊き返されて、言葉に詰まる。
「……何でもない」
 小声でぼそっと言って、そしてまた、沈黙。
 また駅に止まって、客が数人降りる。
 二人同時に、席の間隔を詰めようとして……そして目があって、反射的に同時に遠ざかる。
 目が合う。目を逸らす。その繰り返し。
 家までの電車がこんなに長いものだと、今まで思ったこともなかった。
 また駅に止まる。対向車との行き違いのため2分停車。
 私は席を立つと、ホームに出て背伸びをして、そしてため息をついた。
 ホームの向かいに、上りの電車が着く。私は車内に戻ると、さっきよりほんの少しだけ藤森くんに近いところに座った。
 そして、また電車が動き出す。車内の乗客も、大分と減ってきた。
「あ、あのさ」
 また、藤森くんが話しかけてくる。
 しばらく、沈黙が開く。
「……今日、家に遊びに来ない?」
 どちらかと言えば小さな声で……彼が言った。

    6

 電車を降りた私たちは、やっぱり無言のまま歩いていった。
 自分がなにを考えているのか、分からなくなりそうだ。……今日の私、何かおかしいよ。ゼッタイに。……

 藤森くんの家は、マンションの5階にある。駅からは歩いて10分弱。1階にはこの辺に多いチェーン店のスーパーが入居している。私も普段からよく買い物に来る店だ。
 しかし、2階より上に上がったのって何年ぶりだろう。……幼稚園の頃に2、3回遊びに行った記憶はあるけど、多分それ以来だと思う。
「お父さんもお母さんも、今日は夜まで帰ってこないんだ」
 エレベーターの中で、藤森くんが言った。
 しばらく、エレベーターの音だけが響く。
「へえ、そうなんだ……」
 特に何の意味もなく、ただ沈黙を破るために私が答える。
 しかし結局はそれっきり沈黙。
 5階に着くと、また黙ったまま歩く。お互いぶっきらぼうな態度を取っているわけではない。ましてや言葉が無くても全てが分かっている何て訳でもない。

「なにか飲む? コーヒーでも紅茶でも、冷たい麦茶もあるけど」
 マンションの台所。ちょっと文法を間違えて、藤森くんが言う。
「それとも……あの、」
 そこで少し口ごもってから、言う。
「シャワーでも浴びる? 何なら」
 言ってからかぁっと顔を赤くするのが、私から見ていても分かった。
 その時にこう答えたのは、私の悪戯心だったのだろうか。自分でもよく分からないうちに、私は答えを返していた。
「うん。じゃあ……シャワー、もらうね」
 藤森くんの顔が、熟しすぎたトマトみたいに真っ赤っかになった。

 シャワーの先から、熱い雫があふれ出る。その雫は私の髪の毛を伝って、肩へ、胸へ。そして茂みを通って、足を伝って落ちてゆく。
 心が揺れ動く。なし崩し? そんなことはないと思う。……きっと。
 気持ちが近づいて、お互い合わせようとして。でも完璧に引き合うことは無く、微妙にずれていて。だから近づこうとして……。
 複雑に考えてみてもしょうがないのは分かっている。それでも思考はぐるぐる回って、止まるところを知らない。

 何気なく、自分の胸を見つめる。決して大きいとは言えないが……まあ、それなりには膨らんで、自分がもう子供じゃないことを、いつまでも少女ではないことを端的に教えてくれる。
 自分でも表現できないけど、ただ何となく切ない気持ちが私を襲う。
 シャワーを止める。髪の毛から、下腹部の茂みから、雫が滴る。
 体が火照っているのは、シャワーを浴びたせいばかりではない。きっと。

 体中の雫を丹念にバスタオルで拭って、そして制服をもう一度身につけてから、台所に戻る。
「あがったよ〜♪」
 精一杯明るい声で言ってみる。
「あ、うん」
 何だか恥ずかしそうに顔を赤くして目を伏せる藤森くん。
 そわそわとした後。
「……僕もちょっとシャワー浴びてくるよ」
 俯いたまま小声で言うと、私の方もほとんど見ないまま立ち去る。

 一人で残された私は、することもなく、ぼんやりと椅子に腰掛けていた。
 テーブルの上にはコップが2つ並んでいる。1つには少しだけ、そしてもう1つにはなみなみと麦茶が入っている。……どうやら、藤森くんが私のために準備しておいてくれたらしい。
 水滴のたくさん付いたそのコップを手にとって、そっと一口喉に流し込む。
 冷たい。シャワーで熱くなった体に、心地よい刺激が走る。
 藤森くん、優しいなぁ……。
 そう思った瞬間、麦茶で冷えた体がまた火照り始める。
 そして体の芯に、とろり、と言う感触が走った。
 嘘。なんでこうなるの? 私、そんなスケベな性格じゃないはずだよ。
 こんな所で、替えなんて無いよ……。
 トイレにでも行って、処理するしかない。……場所はさっきシャワーを浴びたときに確かめていた。確か脱衣場を挟んで、お風呂の向かいだった。
 私は取りあえず、トイレに駆け込んだ。

    7

 幸いにして下着はほとんど濡らさずに、私は何とか処理を終えた。
 気恥ずかしい思いで、トイレを出る。……そして、次の瞬間。
「あ」
「え」
 2つの声が同時に上がる。
 ちょうどドアを開けた瞬間、向かいの風呂場からちょうど藤森くんも出てきたのだ。
 ……当然ながら、裸のままで。まあ普通は誰も見ないので、タオルを巻いていないことを責めるわけには行かないけど……。
 漫画とかだと、普通こう言うとき、女の子はまず悲鳴を上げるものだ。……しかし実際にそう言う事態に直面すると、唖然とするばかりで声なんか出ない。藤森くんもすぐに隠してくれればいいのに、やっぱり呆然として立ち尽くしているので、私はつい凝視してしまう。
 当然、こんな物を見るのは初めてだ。まあ、うんと小さい頃に父親と風呂に入ったのを除けばだけど。私の見ている前で、それは微かに震えながら……そして、少しずつ膨張していた。
 不意に我に返った私は、思わず両手で口をふさぎながら、視線を上げた。
 途端に藤森くんと目が合う。
 瞬間、数十通りの言葉が頭の中に浮かんで、……そしてその全てが、口にするどころか、自分でも何をいおうとしたか分からないまま、立ち往生して消えていく。
 目を伏せたら、今度はアレが目に入るわけで。まさか天を仰ぐわけにもいかない。
 呆然としていたのは、実際にはせいぜい数秒だったと思う。
 でも、その時間が無限に長く感じられた。
 そして不意に、彼は慌てて体を返すと、飛び込むように風呂場へと戻っていった。

 さっき何を言おうとしたんだろう。
 そう思ったとき、私はひんやりした気持ち悪い感触に気付いた。
 ……体は正直だよ、なんて歯の浮くような言葉が思い浮かぶ。……そう。体は正直だ。
 今、処理したばかりなのに……。
 とろり、なんて程度ではない。どろっ、とあふれた雫は、しっかりと下着を濡らしていた。
 立ち尽くしたまま、最後の葛藤。
 葛藤とは言っても……最初から、私の中の本心は決まっていたのかも知れない。
 必要だったのは、不安を乗り越えるためのひとかけらの勇気。「少女期」という名の時代にピリオドを打つ決意。そして「もう子供じゃない」という覚悟。
 その全てが、不安定ながらも私の中で揃った時。
 もう、そこに迷う余地はなかった。

 洗面台の前には、籐を編んだ脱衣カゴが置かれている。藤森くんの服がやや乱雑に入ったその上に、私は服を一つずつ脱いではきれいに畳んで置いていった。下着まで行ったところで、ちょっと手が止まる。息を一つ吸い直して……そして、ブラから外していく。Aカップのブラ。正直言って、悩みとまでは言わないまでもちょっとしたコンプレックスだった。けど……今は、そんなに気にならない。私は私なんだから。……そうだよね、藤森くん。風呂場の中で、多分すっかりのぼせて顔を真っ赤にしているだろう彼に、私は心の中で言った。
 もう一度息を吸うと、私は最後の一枚を一気に脱ぎ捨てた。……さすがに濡れているのが気になったので、カゴの横にそっと置いておく。
 そして、私は風呂場のドアを開けた。……鍵は、かかっていなかった。
 少し身をかがめながら入ってきた私を見て、湯船の中にいた彼はまた目を伏せた。
 でも、さっきほどの反応ではなかった。……きっと、藤森くんも、私が外にいる間にできていたんだと思う。
 最後の勇気が、決意が、覚悟が。
 換気扇を回していない風呂場は、湯気で微かに霞んでいた。
 私は少し口元を上げると――今度は作り笑いでも何でもなく、ごく自然に零れた笑みだった――、一言だけ言った。
「いいよねっ」
 自分でも驚くくらい、明るい声。
 そして、藤森くん……いや、浩史は、大きく頷いた。
「うん、もちろんっ」
 ちょと浩史らしくないくらい、それはしっかりした声だった。

    8

「一緒に入ってもいい?」
 そう言うと、私は浩史の返答も聞かず、湯船に飛び込んだ。
「あ……」
 彼が何か言いかけて、結局止める。
 彼の家の湯船は普通のよりはちょっと広い気がするけど、正直言って二人で入るのは明らかに窮屈だ。でも、その窮屈さが今は心地よかった。私と彼の体が触れ合う。足が、腕が、あるいは胸が。
 不意に腕に、固い棒のような物が触れる。一瞬何か分からなかった私は、それに気付いて思わず悲鳴と共に腕を引っ込めた。
「きゃっ」
「ごめん!」
 ほぼ同時に浩史も声を上げて、お互い湯船の両側に張り付く。そして互いの顔を見ながら、苦笑い。
 数秒の沈黙のあと、私は黙って、もう一度その場所に……今度は自分の意志で、両手を伸ばした。そしてそれを、柔らかく包み込む。
「ままま待ってよ」
 浩史がひどく慌てた声を上げる。その声を無視して、私は言った。
「あったかいね」
 それは小刻みに震えていた。まるで心臓のように、どくん、どくん、と私の手の中で鼓動する。
「あ……そう?」
 傍目から見ても言葉に困った様子で、ものすごく間抜けな台詞を言う浩史。……でも私は好きだ、そんな彼が。
「うん」
 湯船の中なのに、それ自身の暖かさがよく分かる。考えようによっては……普段の自分から見れば、ひどくグロテスクな物体。しかし今の私は、その確かな生命感を美しく、力強いものと感じていた。
 ちょっと逡巡した表情を浮かべた浩史は、不意に腕を伸ばすと、私の乳房に触れて、そのまま掌で優しく包み込んだ。私はまた悲鳴を上げかけたが、今度は逃げずにそれに身を任せた。当然初めての筈なのだが、その手は優しく、柔らかい双丘を揉み上げる。
 私の体が、ひどく火照ってくるのが分かる。湯船に浸かっているせいだけじゃない。暑い……熱い……。
「湯船から出よっか」
 少し気が遠くなりかけていた私は、浩史のその声で我に返った。はっと気が付き、握りっぱなしだった両手を引っ込める。
「ちょっとのぼせて来ちゃった」
 恥ずかしそうに言う彼。
「うん。……私も」
 真っ赤な顔で俯きながら、私は答えた。

    9

 水色のタイルが、私の背中にひんやりとした感触を伝える。
 私は洗い場の壁にもたれて、ぺたんとお尻を床に付けて座り込んでいた。両足は股を開いた体操座りのようにして前に投げ出し、その間から両手を床に付く。今更になって隠すものでもないと思うけど、何となくそんな行動をとってしまう。
 私の前で、正座の足を両側に投げ出したように膝を折って、やっぱり力無く座り込む浩史。その顔には焦りと困惑の混ざった表情を浮かべている。……多分私も、同じような表情をしているんだろう。気持ちばかりは先行するけど、でも、どうして良いのか分からない。どこかで見聞きした「伝聞・推定」だけが頭を渦巻く。
 不意に何かを決意したように身を乗り出すと、浩史はもう一度私の胸に触れた。そして今度はそのまま顔を私の胸に近付ける。……マナイタみたいな胸のくせに、私の乳首は馬鹿みたいに固くなってとんがっていた。体は正直、だよね。理性のぼやける頭で、そんなことを考える。
 浩史の口の中で、舌先でころころと転がされ、吸われ……。私の体も心の中も、更に熱く火照っていく。熱く、熱く、もっと熱く……。
 時々上目遣いで、浩史は私の顔を覗き込む。
(ほんとうに、いいの?)
 そしてその度に、私は快感に歪む顔から何とか笑みを作り出す。
(うん、……いいよ)
 彼の舌は徐々に下がって……おへそを通って……そして、「例の場所」へと降りて行く。私は抵抗もなく、自然に塞いでいた手を両側に開いて、その場所を剥き出しにしていた。
「うわっ、びしょ濡れ……」
 彼が驚いたように呟く。私は顔から火が出るかと思った。
「そ、そんなこと言わないでよ、馬鹿……」
 そう言いながら私の体は抵抗できない。……身を、任せる。
 多分人並みよりはやや薄目の茂みを抜けて、その場所へ向かう。
 そして……私は知った。
 今までの「快感」なんて本当の快感じゃなかったことを。
 ぢゅる、ぢゅ、とお行儀の悪い卑猥な音が聞こえる。
 私の全身から力が抜けて、もたれていた壁からずるずるとずり落ちて、そしてほとんど仰向けの状態になる。
「…………っ!」
 思わず喘ぎ声を上げる。アからオまでの全ての音が混じったような、文字に出来ない言葉。あるいは「言葉」以前のもっとも原始的な声なのかもしれない。
 白濁する意識。
 供給過多で苦しいような快感。

 ……それが頂点に達しようとしたとき、不意に愛撫が止んだ。
 焦点の飛びかけた目を凝らして、浩史の顔をじっと見る。
「いいんだよね」
 最後の確認は、はっきりと声になっていた。……微かに震えの混ざる声。
「本当に、いいんだよね」
 じっと私の顔を見る。
 私は返事の代わりに……両手をいっぱいに広げると、そのまま浩史に抱きついた。
 ……あとはそのまま、床に2人倒れ込むだけだった。

    10

 仰向けになった私の膝の間に、彼の体が入ってくる。まるで私の身体を押し開くかのように。
 私はそっと眼を閉じる。
 そして、私の下腹部が突き上げられる。……が、それは私の中に入ることは出来ずに……ただ、私の体を突いて、そして滑っていく。
 目をつぶったまま、私は何度もその痛みを堪える。「痛い」の一言を漏らさないように。……優しい浩史のことだから、私がそれを口にした瞬間に彼はそこで行為をやめてしまうだろうから。それが怖くて、私はただじっと歯を食いしばっていた。
 そんな事が数度続いた後……不意に、今までとは違う感覚が私を襲った。そしてひときわ大きな痛み。
「いっ……」
 思わず声を漏らした私。
 そして浩史の動きが止める。
「……大丈夫だよ」
 彼の顔を見ると、私は辛うじて言った。
 それでも彼は、じっと私の顔を見ている。
「本当に大丈夫だから。……本当だって」
 私はもう一度繰り返した。
 視線がぶつかり合う数瞬。そして浩史は微かに頷くと……一気に、私のいちばん奥まで差し込んだ。

 その時。
 私の中に最後まで残っていた「少女」という殻が、壊れた音を聞いたような気がした。
 そしてその殻の中から一気に溢れ出たかのように、今までにない激しい快感が私を襲って……そして、私の意識をあっという間に押し流していった。
 しかし、それは不思議と恐ろしいものではなかった。その激しさにもかかわらず、むしろその奔流は不思議なくらい優しいものだった。
 ぎこちなく身体を動かす、私と浩史と。その動きは感触は激しく私の意識をかき回す。どちらともなく、2人同時に互いの身体をぎゅっと抱き寄せる。浩史の身体の暖かさが、心臓の鼓動が、荒い息遣いが、私の肌に強く伝わってくる。その感触に、私は強い安らぎを覚えた。
 安心感に身を任せながら……そして、私の意識の最後のカケラは、どこかへと押しやられていった。

    11

 食堂に腰掛けて、私たちは今日2杯目の麦茶を飲んでいた。……汗をたっぷりかいたせいか、さっきと同じ麦茶が数段美味しく思える。
 一足先に飲み終わった私は、こくんこくんと喉を動かしている浩史の顔を、じっと眺めていた。
「ん?」
 麦茶を口に含んだまま、彼が怪訝そうな顔をして私の方を見る。
「ふふふ」
 私は思わず微笑んだ。
「……何だよ」
 苦笑しながら言う浩史。
「美味しそうだな、って」
「おかわり? それならそう言ってよ」
「違うよ」
 ……会話はそれっきり。照れくさくて、まともに話なんか出来やしない。
 でも、話なんかしなくても、2人でこうしているだけ、それだけで何だかあったかかった。きっと言葉なんか、要らないんだと思う。
「うん……」
 思わず私は声に出して頷いていた。
「え、何?」
 突然の私の声に、驚いたように浩史が声をかける。
「何でもないよ」
 そう言って私は下を向いた。
 なに馬鹿なことやってるんだろ。
 と、その時、浩史の声がした。
「……そうだよね」
 顔を上げると、浩史は照れくさそうに麦茶を飲んでいた。
 私はふと思い付くと、テーブルを立って浩史の方に近付いた。
 コップを置いた浩史が私の方を見た瞬間。
 私はすばやく彼の顔に近付くと、そのまま唇を合わせた。
 一瞬目を見開いた彼は、それからそっと目を細めた。
 数秒後、唇を離した私は言った。
「ファーストキスなんだから。何だか順番が逆だけど……」
 照れくさくなってちょっと下を向いてから、もう一度彼の方を向く。
 浩史の顔が、いかにも苦しそうに歪む。
「ばっかみたい」
 そう言って彼が吹き出すのと同時に、私も我慢できなくなって吹き出した。
「ね、バカみたいでしょ」
 私もそれだけ言うのが精一杯。
 あとは、ひたすら笑い続けていた。

 浩史の家を出る頃には、すっかり辺りは夕焼けに包まれていた。
 夕日が赤く辺りを染める中を、私は家路についた。
 ……もう、私も浩史も、子供なんかじゃない。
 でも、やっぱり。
 こんな子供みたいな馬鹿な2人が、私たちにはふさわしいのかもしれない。

 そんなことを思いながら、私は空を見上げた。
 雲一つない空。
 今夜はきっと、キレイな星空になるよね。

《「運命の赤い糸」 完》


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